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​      精神医療を考える(Ⅹ)

第132回

 現在、精神科医たちは、「都市型うつ」への対応にはなはだ困惑しています。もし、ひとりひとりの精神科医が「都市型うつ」への備えを十分出来ていれば、患者数が少々増えても対応できたはずです。

「都市型うつ」は都市化がもたらしたうつであり、都市生活の問題と密接に関わっており、薬だけでは決して治りません。

 

 原因の多くは、都市生活者特有の生活習慣の問題や対人関係のストレスにあり、それらに介入しないと決して治療になりません。

 

 面接・対話を通して生活習慣をめぐる指導や、対人関係に関する助言などを行うことを精神療法というのですが、多くの精神科医は指導・助言を行う習慣がありません。

 

 精神科医の養成システムには、致命的な欠陥があり、医育機関たる大学病院に、精神療法を教えられる教師は0に近いのが実情です。教授の多くは、薬物療法については大変雄弁ですが、話題がこと精神療法に及ぶと、突然にして沈黙します。その部下たちも、もちろん同様です。

 

 教授ですらそうであり、今日の精神科教授の中で、精神療法を自信を持って語ることの出来る人は極めて少数です。

教授がこのレベルですから、多くの精神科医は、事実上、薬物療法しか学ばないで成長していきます。精神療法も療養指導も教わったことがないのだから、出来るはずがありません。だから薬を出すしかないのです。

 学会も手をこまねいている訳ではありません。

特に「日本うつ病学会」は、2012年に大きく方向転換し「大うつ病性障害治療ガイドライン」を発表。

 

 そこで、抗うつ薬の多剤・大量処方に警鐘を鳴らし、軽症うつ病では「非薬物療法」を推奨するなどしています。

特に、軽症うつ病に「有効性を示し得る治療法は、ほとんど存在しない」ことを指摘し、【うつに薬が効くという太鼓判を、学会自らが取り下げる決断をしています】

 

 その最大のメッセージが、薬物療法推奨からの撤退であり、むしろ、精神療法や心理教育などの非薬物療法へのシフトを勧めるものでした。

 

 しかし、新ガイドラインが出されてからも、臨床の場では、依然として抗うつ薬は使われ「うつ病の治療=抗うつ薬」という図式に大きな変化は起きていないのです。これは、医師の治療習慣というものを変えることが極めて難しいからです。

 

 昨日までは、大学の教師たちは薬物療法だけを教えてきました。彼らは「うつの治療=抗うつ薬の使い方」だと思っており、「カウンセリングなどは臨床心理士に任せておけばいい」と思っていました。

 

 精神医学の教師たちは、患者とのコミュニケーションが大切だなどとは思っていませんでした。

若手医師は、実際に指導医の診察する様子を見る機会がありますが、そこで行われていることといえば、精神療法とは呼べないシロモノです。

「・・はい、・・はい、・・はい」と5分毎に相づちを打って、最後に「じゃ、薬出しておきますね」でおしまい。それを「傾聴、支持、共感」という精神療法のスキルだと強弁してみても誰も納得するはずはありません。

 

第133回

 

 薬物療法偏重の精神科医が薬の処方をやめ、療養指導、精神療法中心の治療に切り替えることは、不可能ではないにしても、極めて困難で、出来るとしても限度があります。

 

 今後、精神医学教師陣が世代交代し、現在、現役の精神科医が引退するまでは、間違いなく薬物療法偏重は続きます。

全国の英語教師が全員、ネイティブスピーカーなみに、英語がしゃべれるような時代は、まず来ないでしょう。精神科も同じ。精神療法が板についている人ばかりが精神科教師になる時代は、多分、やって来ないでしょう。

 

 このことは、すなわち、精神科医療における薬物量補偏重は未来永劫、続く可能性があるということです。このままでは、日本の精神医学会は、ますます世界から取り残されるでしょう。

「日本うつ病学会」が「軽症うつ病」は薬を優先しない「ガイドライン」を打ち出したといっても、そう簡単に現場では右から左への方向転換は出来ません。

 

 そもそも、この「ガイドライン」も、薬物療法の推進派から激しい反発を受けながら、一部の幹部たちの大英断の末に提出されたものでした。

 

 この「ガイドライン」が出る前後から、推進派たちは「それでも薬を使うべきだ」という論陣を張りました。

彼らは「SSRI」ブームの時に、旗振り役を勤めた人たちです。当然ながら、突然、椅子を外されtあようなものなので怒り心頭です。

 

「日本うつ病学会」が、薬物療法の推進派の猛反対を押し切って薬物療法から撤退したのには、このままでは。世界の精神医学から取り残されるという危機感があったからです。

 

 欧米では2000年代には、既にSSRIに対して懐疑論が蔓延し、研究者たちが、公開されることなく眠っていたデータを掘り起こして解析し直し、予想通り「SSRIの効果は最重症例を除けば、ほとんど効果がありませんでした。2012年の「日本うつ病学会」の英断は当然のことで、さもないと世界の精神医学の流れから孤立してしまう結果となっていたでしょう。

第134回

 これだけ効果が疑問視されている「SSRI」などの抗うつ薬について「どうして精神科医は使いたがるのか」と思う読者も少なくないでしょう。

 

 精神科医は不思議と薬を増やす。しかもその増やした薬をいつまでたっても、何度頼んでも頑として減らさないで続けたがる。このような現象を理解できない患者の皆さんもいるでしょう。

それには理由があります。精神科医という集団が「薬は増やすべきだ」「増やしたら減らすべきではない」というイデオロギーに完全に洗脳されているのです。

 

 この「抗うつ薬増量イデオロギー」の布教のために使われた常套句が【十分量、十分期間】というもので、「抗うつ薬を少量ではなく、十分な量を使え」「短期間ではなく長期間にわたって使え」というものです。

 

 この「十分量、十分期間」という決め台詞は、「うつ病」に関する書籍や専門誌、論文全てに登場し、講演会や座談会など「うつ病」の治療を語る会でも、全ての論者が異口同音にこの台詞を口にしました。

 

 特に、若手精神科医が提示した症例において、治療がうまくいっていないと、ほとんどお約束のように「そんな少ない量だから効かないのだ。もっと増やせ」「すぐにやめるな、再発するぞ、もっと長く飲ませろ」といった叱責がなされました。そうした中で、若手精神科医は「十分量、十分期間」向精神薬の処方を身に染みついていくのです。

「十分量、十分期間」これは多くの精神科医にとって、来る日も来る日も長年にわたって呪文のように聞かされ続けたフレーズです。

 

「増やさないと怒られる」「やめると悪化する」そんな恐怖心もあいまって、一人一人の精神科医が診察室で「十分量、十分期間・・」とつぶやいているような状態です。当然、精神科医たちは薬を「十分量、十分期間」使うのです。

この号令によって、最大の利益を得たのが、製薬会社であることは言うまでもありません。

 

 製薬会社にとっては、「最大多数の最大投与量」が、販売促進の目標で、投与量は多いほどよいし、投与期間は長い程よい。

 

 そのためには、製薬会社は次々にデータを出してきます。

これらの投与量、投与期間に関しては、膨大な臨床研究が行われていますが、論文になった研究だけを読んでいると、お約束通り「投与量は多い方がいい」「投与期間は長い方がいい」という結論になっています。

 

 そして、そんな論文が出るや、どこかの教授に解説文を寄稿させて美しいパンフレットに仕立てられます。そして日本中の精神科医たちにばらまかれるのです。このようにして「十分量、十分期間」のイデオロギーが日本の津々浦々に浸透していくことになるのです。

 

第135回

 

 抗うつ薬の効果については、有効性を示すデータにバイアスがかかっています(出版バイアス)

医学ジャーナルというものが「薬が効く」という論文を好んで掲載したがる為に生じた問題です。

例えば、E・H・ターナーが発表したデータを示しましょう。

 

 80年代後半から00年代前半にかけて、米国の食品医薬局には、74種類の抗うつ薬臨床試験が登録されました。このうち31%は論文に公表されませんでした。なぜなら、抗うつ薬の効果を証明できなかったからです。

 

 一方で、抗うつ薬の効果が証明できたものは、38種類で1つを除く37種類試験が公表されています。

つまり、「抗うつ薬の効果が証明出来れば論文になる。出来なければ論文にならない」という訳です。このようなことでは、当然ながら論文になったデータだけを読まされる者は、抗うつ薬の効果は、実際以上に強く感じられることになります。

 

「どの論文を読んでも『抗うつ薬には効果がある』というデータが出ている」そう受け取られるからです。

「どうして精神科医は、あんなにも薬を変えたがるのか?」患者さんが疑問に思う点として、これも多い疑問でしょう。

薬の変更は、全くの無手勝流です。根拠なんかありません。

 

 精神科医の中には、実際、嬉々として薬を変更したがる人がいます。その際に「あなたに会うお薬を探しましょう」というようなフレーズさえ使われます。

 

 私は、このような「お似合いの薬」という恥ずかしい言葉を躊躇なく口にする精神科医たちを見て、滑稽で仕方がありません。まるで、「今日の食事に合うワインはこちらです」とおすすめしてくれるソムリエのようにさえ思えました。

そんな意味で、依然、からかいを込めて、彼らを「薬のソムリエ」と呼んだのです。

 

 ところが、さらに驚いたことに、彼らはこれを「褒められた」と勘違いしたらしく、その後、自ら「薬のソムリエ」と自称するようになりました。何度、繰り返し嘲笑しても、「褒められた」と図に乗って「薬のソムリエ」ぶりを発揮してくれるのですからお手上げです。

 

 それにしても、こういう精神科医につける薬はあるのでしょうか?「お似合いの薬」はない気がします。

 

 私は、少なくとも都市型うつの患者さんについては、「お似合いの薬」があるとは思いません。

 

 一番、「あなたにお似合い」なのは、【薬に頼らないヘルシーな生活】です。

そもそも、「薬のソムリエ」に根拠はありません。「ここ掘れワンワン」方式で、「当たればこれ幸い」とばかりに、次から次へと変えているだけに過ぎません。

第136回

 精神科医が薬剤の変更を繰り返すのは「雨乞い」に例えるのが適切でしょう。

雨乞いの論理とはこうです。日照りが続き雨が降らなければ、皆な、集まり、鉦や太鼓を持ち出しダンスをする。そいて、ついに雨が降ったとき、「ああ、一生懸命雨乞いやって本当によかった。頑張った甲斐があった」と。

しかし、雨乞いの効果に懐疑的な人は、「雨乞いなどしなくても、そのうち降ったのではないか」と考えるでしょう。

これと同様のことが、精神科医の「薬剤調整」には言えます。

 

「薬剤調整」と称する抗うつ薬などの無益なローテーションは、患者の状態を把握できていない精神科医が窮地に陥ったときに、しばしば犯す愚行です。

 

 精神科医は、効果が現れるまで、次々と薬を変え、最後には多剤大量処方をし、ついに効いた。

その結果、「薬剤調整をして本当によかった。頑張った甲斐があった」と嘆息するのです。そして「あきらめてはいけない。薬が効くまで薬剤調整の努力を続けるのだ」と決意を新たにするのでしょう。もしかすると、その薬の処方ではなく、何か別の偶然が働いてよくなったにも関わらずにです。

 

「雨乞い」の三段論法は、「雨乞いした・降った・効いた」です。
「薬剤調整」の三段論法も「使った・治った・効いた」です。

これで、【三タ、雨乞い療法】と呼ばれているのです。

しかし、これは「知性のある人間にふさわしい仕事」とは言えないのではないでしょうか?

 私(井原)が一応、「大学病院の教授」ということになっていますが、精神医学に全幅の信頼を置いていません。教科書通りに行っても、うまくいくはずがないとさえ思っています。

 

 全く教科書を読まないわけではありませんが、半分だけは受け取っておいて、残りはむしろ少数の尊敬すべき精神科医の言葉と、自分自身の臨床経験に基づいて診察をやっていこうというタイプです。

こういう不良教授としての私の立場から言えば、現在の「薬物療法」の考え方には、いくつもの点で疑問があります。

 

 薬物療法の教科書(薬のカタログ)には、抗うつ薬を総花敵に紹介していますが、その通りに臨床をやろうと思えば、先ず、抗うつ薬を単剤で使い、効かなければ他剤を単剤で使い、さらに効かなければ強化療法を行う・・・といったワンパターンの治療をすることになります。

 

 それでもなかなか効果が得られなければ、「もっといい薬はないものか」と嘆くことになります。

精神科医の多数派は、このように「いつの日か、いい薬が現れないものか」と切望しているのです。

 

 しかし、「いい薬」は現れないでしょう。それは「薬物療法」以前の問題です。もっと基本的なこと(例えば、生活習慣、体調)おろそかにしては、いかなる「いい薬」も、その効果を発揮できないはずです。

 

第137回

 そもそも精神医学の教科書が役に立たないのは、治療の優先順位について書かれていないからです。

 

 どの抗うつ薬を選ぶかなど、実はどうでもいい問題であり、その間にしなければいけないことがたくさんあります。

ある薬物療法で著名なA教授の下で治療を受けていたBさんは、一向に改善せず、ついに私の所に来ました。

確かに症状をリストアップしていけば「うつ」なのですが、生活状況を尋ねてみると全くもって予想通りの不活発ぶりでした。しかも連日昼間から飲酒、これでは治るはずがありません。

 

「薬物療法」の教科書には「生活習慣」の「せ」の字も書かれていません。

 

 今日の精神科医は、生活習慣をモニターし、適切な療養指導を行いながら薬剤を投与するという習慣が全くないのです。

生活習慣を一切顧みず、いかなる療養指導もせず、ただ黙って薬を出し続けます。そして次回の外来で、よくなっていなければ増量、もしくは変更する。これを繰り返すだけです。

不健康で荒れた生活を送っている患者さんに薬剤を投与してもよくなる訳ではありません。

 

 そして、そのような状態のままで、抗うつ薬を入れ替えても、あるいは炭酸リチウムのような増強作用のある薬剤を追加しても、所詮、焼け石に水なのです。

 医学には「侵襲」という言葉があり、これは、生体内の恒常性を攪乱する出来事全般を指します。特に治療や検査に伴うしんtあ胃への損傷を指して、「侵襲」という語で表現しています。

 

 精神科の「薬物療法」は先述した「十分量。十分期間」主義、さらには強化療法としてのリチウムの併用などの副作用が強いことがわかっている治療法があえて推奨されることがあります。

 

 このような時に、治療者側が「治そう」と力む余り「侵襲」のリスクへの警戒感を失いがちなことがあります。

とりわけ高齢者の「うつ」に関しては、本人が苦痛を訴え、「もっと効く薬を」と訴えたとしても、それに効果が期待できず、むしろ「侵襲」が大きいと思えば、治療を控えることも一つの考え方だと思います。

 

 私は高齢者の「うつ」に対しては、ご本人にもご家族にも「治しすぎないようにしましょう。弱い薬を使っても効くかどうかわからないし、無理に治そうとして薬を強くして、かえって副作用が出てしまって具合が悪くなってもいけない。少しよくなればそれもよし。完璧に治すなどということは、目指さないようにしましょう」と申し上げるようにしています。

 

第138回

 

 つくづく思うことは「薬物は効いていないなら切るべきだ」ということです。

効果のない薬でも副作用だけはあります。日中の眠気は「うつ」を一層悪くします。夜のふらつきは転倒を招きかねません。それで骨折してしまえば事態はますます悪化します。

 

そんなことになるくらいなら、いっそのこと使わない方がましです。

その一方で、生活習慣を改善することには、何の副作用もありません。「侵襲」は全くありません。

「無理なく、無駄なくおだやかに」そんな方法で治療の目的を遂げられるならば、それに越したことはありません。

 

「難治性うつ病」は、治さなくてもいい。

 

 むしろ、現状を維持しつつ、状態のモニターを根気強く続ける方法もあるのです。

【心と体の健康を維持するためには、適度のストレスは必要です】

それは、ストレスの少なすぎる状態が、どれ程、心身に不幸な結果をもたらすかを考えれば、ご理解頂けると思います

 有閑階級の無為・怠惰、ニートたちの仕事のない空虚感、子どもの自立後の母親たちの空の巣症候群、産業戦士の移植後の虚脱感を見てみましょう。

 

 何もすることがない、明日の予定がない、誰からも仕事を頼まれないといった日々が続くと一気に健康を害します。

翌日の予定がないから、いくら夜更かしをしても構いません。朝は何時に起きてもいい。時間があり余り、やることもない。ストレスもないがエキサイティングなことも起こらない。

 

 私たち、精神科医は、仕事柄、ストレスが少なすぎる人にも接します。このような人には「短時間の仕事でもいい。地域でのボランティアでもいい。とにかく何らかの用事をつくりましょう」ということを申し上げています。

適度な仕事は健康法の一環です。

 

 それは規則正しい生活をもたらし、精神と肉体の若さを保つのです。

​​第139回

「うつ病」の患者さんは、恐怖におののいています。そのわりに医師からは、抗うつ薬だけしか与えられず、「焦らないで、じっくりと」意外には何らアドバイスをもらうこともありません。

 

 結果として、患者さんたちは、いつまで経っても治らず、ただ「うつ」に圧倒され、空しく日々を送ります。その中には、年々衰え、社会人として、あるいは人間として、生きていく可能性を失っていくような人もいます。

 

 このようになっても、精神科医は何もしてくれません。何も言ってくれません。

慎重というよりも、最早、優柔不断であり、とにかく勇気づけてくれるような一言だってありません。

患者として「うつ」とどう向き合っていけばいいのか、家族として「うつ」の患者にどう対処すればいいのか全く教えてもらえません。

 

 私は、精神科医のこうした「患者よ、うつと闘うな」式の敗北主義こそが、「うつ」からの回復を妨げているように思います。

 

 簡単に治る「うつ」を「難治性うつ病」に仕立て上げてしまっているようにさえ感じます。

 

「うつ」との闘い方を教えず、ただ薬を出すしかない精神科医は、返済の方法を教えず、ただ金を貸し付けるだけの金融業者のようなものです。

返済能力のない人間に金を貸し付けはいけません。さもないと、あっという間に多重債務状態になってしまいます。

 

 同様に「うつ」との闘い方を教えないで、ただ薬を出してはいけません。それこそ、精神科医のモラルです。そうでもしなければ、患者さんは、たちまち薬漬け状態になってしまうでしょう。

 

 「うつ」と言えば抗うつ薬が出され、さらに患者が「不安だ」と言えば抗不安薬が出てくる。次に「眠れない」と言えば、今度は睡眠薬が加わり、「イライラする」と言うとムードスタビライザー(気分調整剤)が出てくる。

 

 まさに、薬が症状を呼び、症状が薬を呼ぶ。このようにして雪だるま式に処方が膨れあがっていく。借金を返済するために、さらに借金を繰り返す多重債務の構造となんら変わらないのです。

 

 確かに精神科医は、金融業者のように一見、親切そうな人ばかりです。「うつで困っていますね。無理しなくてもいいのです。気軽にお薬を飲んで治しましょう」親切で、しかも優しい。それでも、全く頼りになりません。

そして「一緒にうつと闘おう」とは、絶対にいってくれません。

第​140回

 実際に「うつ」は難敵です。強い気持ちがなくては、この強敵とは闘えません。

患者さんは一時的に気が弱くなっています。そのため、親切で優しい先生に「癒し」を求めるのでしょう

 

 しかし、難敵と闘うためには「癒し」だけでは足りません。頑張ることもしなければならないのです。

【最もいけないことは、薬の効果を過信することです。抗うつ薬をのみだけでは決して治りません】

【何よりも、患者さんの自助努力が不可欠です。なんら努力もしないで、ただ薬を飲むだけでは「うつ」に負けてしまいます】

 

 ヤミ金湯業者と精神科医が違うのは、前者は初めから悪意をもってだましにかかっていますが、後者は、騙す気などなくて専ら善意で動いているという点です。

 

 現場の多くの精神科医は「何とかしてあげたい」と真剣に患者さんのことを心配しています。

ここで、私は「薬漬けは、精神科医の善意から出た行動だから許して欲しい」と言いたいのではなく、むしろ「善意から出た行動」だからこそ、「薬漬け」は根が深いと申し上げたいのです。

 かつて英国の文学者サミュエル・ジョンソンは、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」と言いましたが、薬漬けも同じです。

 

「薬漬けへの道は、精神科医の善意で敷き詰められている」のです。

 

 人は不純な動機から行動しているときは、後ろめたさがありますが、動機が純粋なら、たとえ、悪い結果をもたらして他人から指摘されても、後ろめたさを感じることはありません。

 

 精神科医の薬漬けはこの典型です。

 

 多剤併用を行っている精神科医は、悪いことをしているという自覚がありません。逆に、いいことをしているという自覚をこそ抱いているのです。

 

 精神科医は患者さんに、様々な薬を出していることを誇らしげに話します。「何としても患者を救うのだ」と使命感にも燃えています。

善意、信念、情熱・・・こういう物に満ち溢れているからこそ、始末が悪いのです。

 

 ヒロイズムに酔いしれている人は、他人が忠告しても、全く聞く耳を持ちません。

 

 たとえ、その治療行為が、「患者さんを何とかよくするため」という純粋な動機から出たものであっても、その治療成績や結果を見ようとしないのは、なぜか?

 

 以前に、精神医療被害連絡会が、精神医学会に、「実際の治療成績」の提出を求めたところ、未だに回答されていないのは、「薬を飲んでよくなったというケース」が余りにも少ないからと思われる。

 

 様々な医師の中で、自殺率が最も高いのは、この精神科医であるという事実も合わせて考えて欲しい。

恐らく、その自殺の多くは、善意で行った薬物療法の悲惨な治療結果を前にしての、ある種の自責や絶望感から引き起こされたものであろう。

 

 精神科医自らが、薬物療法中心に偏るのではなく、患者との対話を通して、生活習慣の見直しや具体的なアドバイスを施す「精神療法」をもっと自ら勉強し、臨床現場で生かすことが、今、最も求められている課題であると思う。

第141回

「患者よ、うつとた闘うな。ただ薬を飲め」式の治療ばかりが、幅をきかせている理由の一つに「激励禁忌神話」というものがあります。

 

 つまり、「うつ病」の患者さんを励ましたり奮い立たせたりすることは、症状を悪化させるということです。

精神科医の間では、かつて「うつ病」の患者さんを激励してはいけない都市伝説がありました。それを何の根拠もないのに精神科医は信じてきていました。それどころか、医師国家試験では「うつ病には激励は禁忌である」として出題していたのです。

 

 特にこの問題は「激励禁忌問題」といって、誤答が合否に直接影響する重要問題としてランクされていました。

その結果、「うつ=激励禁忌」と記憶した者だけが晴れて医師国家試験に合格することになります。

 

 だから、彼らは「うつ病」の患者さんを前にして「頑張れといってはいけない」「闘えと言って自殺されたらどうしよう」と思い、ともかく励まさないように、プレッシャーを与えないようにしています。まるで、腫れ物に触るように患者さんに接するのが常でした。

 

 しかし、言うまでもなく「うつ病」の患者さんは、頑張れと言われれば、機械仕掛けのように窓から飛び降りるような人ではありません。

 これまで、日本の精神科医は「うつ」の人に闘えとは言ってきませんでした。「激励禁忌神話」が足かせになって強い働きかけを躊躇してしまったからです。

 

 精神科医という職業に「癒やし系」を期待されてしまった点もあるでしょう。しかし、「うつ」という難敵と対峙するときには、癒しだけでは足りません。闘うこともしなければなりません。

 

 人は温かい励ましなしでは生きていけません。自信を失ったとき、大きな壁に直面した時、「この苦労が決して報われないのでは」という不安にさいなまれる時、自分を支えてくれる人が欲しい、強く激励して欲しいと内心願うものでしょう。

 

 まして、病気を患う者は、励まされることを求めています。身体の疾患であれ、精神の問題であれ、励まされることなくして人は病という重荷を背負って生きていくことは出来ないのです。「うつ病」で苦しむ人を温かく励ますことは、治療上必要であり、「うつ病=激励禁忌」の図式は弊害の方が大きいのです。

​​第142回

 激励禁忌神話と共に、うつ病にとってもう1つの神話になっているのが、「うつに長期休職が必要  という都市伝説です。

 うつには、ごく軽症の、まさに「こころの風邪」と呼ぶべき、3日も休めば治るようなものから、数ヶ月の自宅療養が必要なものまで様々です。

 今日のうつが、重度の「鬱病」ではなく、軽度の「うつ病」にシフトしていることを思えば、「うつには、長期の休職が必要 」は言い過ぎです。

 

 うつになった人を休職させる時、重大な問題が失念されているように思います。

それは、【休職が長くなればなる程、業務能力が失われる】という考えてみれば当たり前の事実です。

この自明の理を等閑視して安易に休職させてしまえば、かえって事態は悪化し、慢性うつ病(難治性うつ病)を作りかねません。

 

【しかも、この場合の慢性うつ病は、「医原病」、つまり「医療、医者が原因」となったものです】

 医療が余計なことをしなければ、こんな慢性うつ病など発生するわけはないのです。

働く人がうつになった時、「休職」させなくても、「休養」させることは可能です。

理想は、休職させないで【治しながら働く、働きながら治す】方針を採ることです。

「治しながら働く、働きながら治す」これは、主治医委の立場からすれば不可能ではありません。

「1日7時間の睡眠が確保されることを条件に就業継続可能」「向こう1ヶ月時間外労働を控えることを条件に就業継続可能」などの意見を診断書に付せばいいのです。

 

 仕事を休ませるにしても、先ずは、数日間~十数日間の自宅療養に限ればいいのです。

そうすれば、その間は年次休暇を使って、労働者の権利として休むことが出来ます。

そして、十分眠って英気を養い気力が戻ってくれば、自分の意思で堂々と職場に戻ればいいのです。

 

 ところが、これが1ヶ月以上の休職となると、事態は人事部の管轄に移ります。

自宅療養は、労働者の権利というよりも、事業者側の管理責任として、いわば、事業者が授業員に休職を命じる形となります。

 

 もはや、簡単に復職できないお膳立てが整ってしまい従業員側もすっかりその気になってしまい、「うつ病患者としての自覚と責任」として「じっくり治そう」「完全に治るまでは、会社には行かないようにしよう」と思ってしまいます。

​​第143回

 休職させるとすれば、それに伴ってメリットとデメリットの両者が発生します。

メリットは、短期間の内に頭打ちとなります。しかし、、デメリットは期間に比例して増大していきます。

この点は、管理会計の損益分岐点で例えればわかりやすいと思います。損益分岐点とは、利益がプラスでもマイナスでもなくゼロになる時の売上高のことです。

 

 うつによる休職に関しては、その損益分岐点とは「この時点以前では休職に意味があるが、それ以降は得るものより失うものが大きい」時点であると考えればいいでしょう。

 

 休職で考えられる利益としては、一般に、ストレス状況から一時避難できる、疲労の回復、気持ちの整理などがありますが、【その利益の曲線は、当初は急峻な上昇を示すけれど、まもなく傾斜を下げ、早晩、フラットとなります】

 

 その一方で、【休職による損失は、時間と共に右肩上がりに増大します】

具体的には、業務遂行能力の低下、体力の低下、信頼関係の喪失などです。

 

 特に、同僚・上司との信頼関係、顧客からの信用などはビジネスパーソンとしての資産ですが、休職中の身は、日一日とそれらの資産を失っていきます。

この事実を考慮すれば、いたずらに復職時期を先延ばしすべきではないことは明らかでしょう。

 私は自分が外来で診ている患者さんについては、【休職期間を出来るだけ短くして、早めに復帰させるようにしています】

 

 しかし、その場合、しばしば閉口するのが、会社側から復職延期の判断が下されてしまう点です。

 

 休職からの復職においては、本人の意思や主治医委の意見よりも産業医や人事部の意向が反映されるから仕方ないにしても、その理由が私としてはどうにも納得がいきません。

 

「医学的には回復していても、業務遂行能力はまだ回復していない」という理由なのです。

私はこの意見はナンセンスに思えて仕方ありません。

 

 業務遂行能力の回復は、事業場と産業医の方にこそイニシアティブをとってご努力いただくべき課題ではありませんか?

それでは、業務遂行能力の回復は、どうすれば上がってくるのでしょうか。

 

 それは、事業場において仕事をしながら、on-the-job-training(OJT)によってリハビリテーションを行う以外にはありません。

一体、業務の場以外のどこで、業務遂行能力の向上が図られるというのでしょうか?

 

 自宅療養を意味もなく続ければ、その間、業務から離れます。当然、業務遂行能力は低下していきます。昨日よりも今日、今日よりも明日、日1日と業務遂行能力は低下します。

だからこそ、早期に復職させるべきなのです。

​​第144回

 なお、企業が一定の責任を担うべきなのは、業務遂行能力だけではありません。

そもそも自宅療養中の従業員の健康管理についてもそうです。何れ、復職してもらうことを前提に休ませているはずです。

 となれば、企業の当然の安全配慮義務として、求人の療養実態をモニタリングする必要があります。定期的に電話をかけ、メールを送って下さい。

 

「治療の進捗はどうか?」「自宅療養中はどのような生活を送っているのか?」「主治医とはどのような話をしているのか?」「いつ頃、復帰できそうか?」などをお尋ね下さい。それらは、患者さんにとって多少、プレッシャーになるかも知れません。しかし、適度のプレッシャーは本人にとってのカムバックへの動機づけになります。

ここでは、「星野仙一方式」の叱咤激励はいけませんが、温かい励ましは必要です。

 

「君の復帰を心待ちにしている」そう繰り返し伝えて下さい。(続く)

「激励禁忌神話」にせよ「長期休職神話」にせよ、うつ病患者さんのご家族には不利な条件が満ち溢れています。

仮に受診したところ「うつ病で1ヶ月の自宅療養が必要」という診断が出たとしましょう。担当医の意見が正しくて本当に1ヶ月ほどの休職が必要だとしたら、その場合、3等分して①休養の段階 ②体力回復の段階 ③副食準備の段階と考えましょう。

 ①休養の段階

 

「焦らず、無理せず、じっくりと」この精神科のドクターがよく言うフレーズが妥当するのは、この休養の段階だけです。この時期には、身体が長い睡眠を要求します。

 特にリフレックス、レメロン、テトラミドなどを服用開始した場合、それまでの睡眠不足を一気に挽回する方向で身体が動きます。その結果、身体が本来の睡眠時間(成人7~8時間)を上回る長い睡眠を要求する場合があります。長時間睡眠から徐々に正常化するのに、個人差はありますが7~10日程度でしょうか?

​​第145回

 ②体力回復の段階

 

 睡眠時間が適正化した頃から、体力回復のためのリハビリを意識的に行った方がいいと思います。

今は脳卒中ですら、早期離床が勧められている時代です。「うつ病」の場合も、そもそも薬物療法開始初日から行っても悪くはないと思います。

「うつ」の患者さんは、心が弱ったのであって体は弱っていません。麻痺もなければ、骨折も捻挫もありません。だから、初日からウオーキング程度は促してもいいと思います。

 

 ③復帰準備の段階

 

 1日の時間割を、通勤を前提としたタイムスケジュールにしていきます。あえて、ワイシャツ、ネクタイ、背広を着て、通勤カバンを持って、いつもと同じ時刻に電車に乗るように促すのもお勧めです。

午前中は机に向かう、新聞を読む、ネットや本で調べ物をする、図書館に行くなどして頭を使う。

職場では、午前中から勢いよく仕事を片付けていく体調が当然のように求められます。

1日の内の後半ではなく、前半にピークに来るようなメンタルのコンデショニングを行う必要があります。

そして会社の上司と連絡を取って積極的に復職後のことを話し合うことが重要です。

 

 精神科医の「うつと闘うな」式の腰の引けた姿勢こそ、うつからの治療を妨げています。

精神科医としては、今こそ「患者よ、うつと闘え」と言わなければならないと私は思います。

しかし、その一方で、患者さんご自身にも戦闘意欲を持っていただかないといけません。「うつと闘う」のは、精神科医ではなく。患者さん自身です。

 

 メディアの精神医学に対する報じ方には、両極端の2種類があって、精神医学パッシングと名医探しですが、その共通点は、「精神科の先生に治してもらおう」という受け身の姿勢です。

その名医信仰が裏切られれば、精神医学パッシングが始まります。パッシングと名医探しは同じ心理の表と裏、理想化とこき下ろしの反復です。

 

 メディアが、精神科医や抗うつ薬を批判することは大切なことです。しかし、それと共に、精神科医の限界、抗うつ薬の限界をも冷めた目で認識しなければなりません。

 

 メディアの言うとおり、精神科医も抗うつ薬も批判に値します。

となれば、この期に及んでいつまでも、精神科医や抗うつ薬に期待をかけるのではなく、むしろ精神科医や精神医学に頼らない方法をこそ追求すべきではないでしょうか。

つまりは「こころの健康リテラシー」を高めることと、「メンタルヘルスリテラシー」を高めることです。

 

 【精神科医に名医はいない】この事実をメディアは正しく伝えていただきたいと思います。

​​第146回

 どうかお忘れにならないようお願いしたいことがあります。それは【患者を治せる精神科医はいない】という事実です。

 

優れた精神科医は、自らの力量に頼って強引に治そうとするのではありません。むしろ患者さんの中にある「治そうとする力」「治ろうとする意欲」を引き出しているだけです。決して、自ら「俺が治す」と意気込んで、患者さんのこころの中に乗り込んでくるものではありません。

 

 では、精神科医は何をするのか?

それは、患者さんと話し合って「出来ることから始めましょう」と提案することだけなのです。問題は錯綜しています。患者さんの混乱しています。でも、順を追って解きほぐせるところから手をつけていきましょう。

 不足の人には十分眠っていただく、酒を飲み過ぎている人には減らしていただく、不活発な生活に陥っている人には、意識して歩いていただく。

 

 最初の数日、数週間は、ただ生活習慣の是正を行うだけです。それだけで身体の状態がよくなって、脳はクリアになります。そうなったところで「うつ」をもたらした事情を1つずつ解決していけばいいのです。

 

 忘れてはいけないことがあります。それは「治療の主役はあなた自身」ということです。あなたの治療を、あなたに代わって担って差し上げることは、他の誰にでも出来ません。

 

患者よ、「うつ」と闘え。闘うのはあなた自身なのです。

 ところが順天堂医院にお越しの方は、そのほとんどが統合失調症でもなければ、器質性・症状性精神病でもなく、一昔前なら、精神科を訪れることなどなかった筈の人ばかりです。

 

 国際的な診断分類に依拠してみれば、一応は「大うつ病」とか「適応障害」などに該当しますが、診断名を付与することは、実務上ほとんど意味がなく、治療で結果を出さなければ患者さんのご満足はいただけません。

 

「精神医学の診断基準に則って診断し、ガイドライン通りの薬物療法を行いましたが結果は出ませんでした。申し訳ありません」そんな言い訳は、ここでは通用しません。

 

 こういうプレッシャーの中で仕事をしていると、徹底的に無駄を省くことになります。SSRIなどの新型抗うつ薬は、頼りにならない薬剤の最たるもので、さっさと減らして
中止していきました。

 

 患者さんは名門病院(順天堂病院)にお越しいただいて、治療費を払っていただいているのだから、当然の対価として結果をお求めになります。

 

 こうなると、こちらとしても、従来の「施すものとしての医療」から、患者さんとの対等な関係を前提とした「パートナーシップとしての医療」という考え方に変えなければなりません。


 

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