精神医療を考える(Ⅴ)
第62回ー『うつの8割に薬は無意味』(井原裕・朝日新書・2015年刊)からー
製薬会社の副作用隠蔽問題については、英国のBBC放送局が、2001年から連続して取り上げている。
従来、製薬会社は「SSRIにはベンゾジアゼピン系抗不安薬などに見られる依存性はない」と主張してきたが、しかし、その一方で薬剤を止めるときに、ベンゾジアゼピン系の際とは異なるが、やはり極めて不快な病状が出現し、その結果として止めにくくなることが指摘されていた。
製薬会社の御用学者(精神科医)たちは、SSRIを売り込む時に「この薬剤には依存性がない。だから安全だ。その点がベンゾジアゼピン系との決定的な違いだ。ベンゾジアゼピン系には依存性があって、一度、飲み始めると止められない」と主張してきた。
だから「でも、SSRIだって、止めようとすると不快な症状が出るではないか」という批判が来たときに、それに対抗するロジック(論理)が必要となった。
そのために、御用学者が思いついた詭弁が、【中止後発現症状】という言葉であった。
2003年、WHO(国際保健機関)は、「中止後発現症状」という言葉を使うことで、依存性とは異なるかのように伝えている点を真っ先に批判した。
【中止後発現症状】・・「薬を飲み続けていれば出なかったはずだ。やめるからいけないのだ」とでも言いたげであり、言葉のあやとは言え、かなり悪質な情報歪曲と言える。
さらにBBCは2002年以来、、SSRIの副作用の隠蔽問題を再三にわたり指摘し続けた。問題は、薬剤を中止する際の症状を軽視したこと、未成年者に対して効果がなかったというデータを隠蔽したこと、未成年者において自殺のリスクが上昇するデータが出ていたのに隠蔽したことを放送したのである。
これを受けて、英国保健省は、2003年6月に医薬品安全性委員会で、「SSRIの未成年者に対するリスクを指摘」し、アメリカ、日本もそれに続いた。
製薬会社というものは、企業であり、その法律上の定義通り「営利を目的とする社団である」ということを念頭に置かなければならない。
製薬会社発の情報は、一般的に有効性に関する情報は誇張され、副作用に関する情報は過小評価されがちで、時には隠蔽されることもある。
最初は、「薬剤との関係は現在、調査中」といった返答をし、報告が相次いで、もはや対処不能と菜って初めて「因果関係あり」といった発表を行う。
その製薬会社は、最近、さかんに「アドヒアランスの向上」ということを言い始めている。
アドヒアランスとは「薬を飲み続けること」を意味し、薬剤の安定した売り上げを確保したい製薬会社の本音なのだ。
今までの論点をまとめると、先ず「疾患啓発」によって、まだ受診していない患者を受診させ、「早期発見、早期治療」によって服薬を直ちに開始させ、「上限まで増量」「最大量をそのまま維持」といって、【患者に少しでも多く、少しでも長く、薬を使わせ】、場合によっては「服薬中止によって再発するリスクがある」といった脅し文句を使い、さしたる根拠もなく「生涯にわたる服薬が必要」と強調し、薬をやめようとする患者に対しては「アドヒアランスの必要性」を主張して、患者にストーカーのようにしがみつく。
これが製薬会社の基本姿勢である。
これを製薬会社の持っているエビデンスに従って。エビデンスとしての信頼性が高ければ強く主張し、低ければ控えめに主張する。
しかし、基本的なラインは「出来るだけ早く薬を飲み始め、出来るだけ多く使い、いつまでも服薬をやめないで、出来るだけ長く、望むらくは死ぬまで飲み続ける」ということになる。
薬を飲まなくてもすむ「健康」な生活こそ、人々の希望であるはずなのに、製薬会社の「辞書」には、「健康」という言葉はありません。なぜなら、「健康」な人は、薬を使ってくれないからです。
第63回
製薬会社は最近、急速に「ライフスタイル・ドラッグ」へと向かっている。これは、疾患の治療というよりも、むしろ、日常生活上の不便や不快を解消するような薬を指し、具体的には、発毛促進剤や禁煙補助薬、性機能障害治療薬、睡眠導入剤、経口避妊薬、痩身剤などである。
製薬会社にとっては、危機的な状況の時にやってきて、短期間だけ活躍し、そのあとすぐ嵐のように去って行く「正義の味方」のような薬は必要ないのだ。
むしろ、一度、患者が使い始めてくれたら、あとは長期間、場合によっては一生、使い続けてくれるような薬剤を開発する方がコンスタントに収益を望める。
英国、カーディフ大学のデイヴィット・ヒーリーの近著『ファルマゲドン』によれば、世界の製薬市場は全体で約9千億ドル(1ドル=100円で90兆円=日本の国家予算)にも達する。
その中でもよく売れているのが、ライフスタイル・ドラッグないしはリスク管理薬で筆頭にあげているのが、「抗うつ薬」とその他の向精神薬でその規模は600億ドル(6兆円)にも上る。
以下、コレステロールを下げる薬が3兆4千億円、胸焼け・逆流性食道炎の薬が2兆6千億円、血糖降下薬が2兆4千億円となっている。
患者も読者も、医学や薬剤の知識については、製薬会社や医師に比べれば、概して多く持っているわけではない。つまり、医師と患者では情報の非対称性がある。すなわち、製薬会社や精神科医が情報を有し、患者はそれを持っていないのだ。
製薬会社や精神科医は、情報を開示する義務を負っているが、現実には、製薬会社も精神科医も情報を完全に開示していないのである。
今日、向精神薬の多剤処方が批判されているが、それに対して製薬会社は次のような回答を用意している。
「私どもは、うつ病の患者様のために抗うつ薬を、不安の患者様に抗不安薬を、イライラの患者様のために気分安定薬を作りました。それは全て患者様からのご要望があってのことです。しかも、その処方については、先生方にいつもこう申し上げております。
薬が必要かどうかを判断なさるのは私どもではありません。あくまで、お医者様です。私どもは、お医者様にいつも適正な処方をお願いしております」。
実は、精神科医も次のような回答を用意している。
「投薬前に、作用と副作用を患者さんに説明しました。適正な使用を指導しました。しかし、効果がなかった患者さんが増量を希望しました、あるいは他の薬剤の追加を希望しました。増量、追加のメリットとデメリットを説明しました。その結果、患者さんは増量、追加を希望なさった。
だからその通り、、増量、追加を行ったのです。決して患者さんの希望しない治療など行っていません。全ては患者さんの望み通りに行ったのです」。
【実際には、製薬会社は薬剤のメリット以上にデメリットを十分に説明しているとは言えません】
【医師も、忙しい診療のさなかに、処方、増量、追加のメリット、デメリットを十分に説明できているとは言えない】
【一方で、患者側は、藁をもつかむ思いでいる。ここに「うまい話にだまされる」ことになりかねない危険が孕まされていることは言うまでもない】
【製薬会社も精神科医も、全面的に信用してはいけない。常に眉につばをつけながら、彼らの言う言葉に耳を貸さなければならない】
【薬漬けの責任の第一は精神科医であることは間違いはない。精神科医が処方しない限り薬漬けは起きない。そして第二は精神科医をそそのかして薬漬けを引き起こした製薬会社である】
患者は【絶対にだまされないぞ】という思いで望む以外ない。製薬会社からの情報も、精神科医の言葉も警戒レベルを最高度に上げて聞いておかなければならない。
心の痛みも不安も憂鬱も、全ては人生の一部であり、薬でごまかすことは出来ない。そして、何よりも【人生の主役はあなた自身】という自明の事実から目を背けてはいけない。
第64回
一般向けのうつ病の書籍では、たいてい最初の方に「ストレスの多い現代社会、うつの心に癒やしを」などと書いています。ところが、治療の段になって薬の説明の段になると、唐突に「うつ病は脳の病気。必要なのは薬」と言い出します。
ストレスだの癒しなどの言葉で、読者の目を引きつけておきながら「脳の病気」だと言って薬物治療を行う。
ストレス、癒し、脳の病気といったまるで関係ない言葉が、相互の関連も説明されないままに、路傍にうち捨てられるように並んでいる。
ここでの「脳の病気」というフレーズは、精神療法が出来ない医師が、精神療法をしない口実として利用しているに過ぎないのだ。
その結果、本来、精神療法の対象とすべき人々が、ただ薬だけを与えられることになる。まさに「薬漬け」にされてしまうのである。
そもそも、「うつ病は脳の病気」というのは、抗うつ薬の作用機序から推測して考えられた、あくまで【神経化学上の仮説】に過ぎないのだ。これは【「モノアミン仮説」と呼ばれるもので、神経伝達物質のセロトニン、ドーパミン、ノル
アドレナリンが不足することによって起こり、抗うつ薬はそれを増やすことによって効果を呈す】。
うつ病患者の増加と共に、「うつ病は脳の病気です」と、ことさらに強調する精神科医が現れた。それは、抗うつ薬を投与する上でも好都合だったからです。だから、製薬会社もこの学説に便乗した。
そして、いつの間にか、「うつ病は、抗うつ薬を飲みさえすれば治る脳の病気」となってしまったのである。
【理由のある憂うつも訳のある悲しさも、全て十把一絡げに「脳の病気」にされてしまったのである】。
しかし、「脳の病気」のテーゼも仮説に過ぎないのである。
では、なぜ、精神科医たちは、この仮説に過ぎないものを事実であるかのように語ったのか?
それは、極端に言って「脳の病気」と見なさなければ、全く立つ瀬がなくなってしまうからなのだ。
精神科医たちが出来ることと言えば、薬物治療しかないのである。「それ以外は出来ません」と言外に伝えざるを得ません。その為にこそ、精神科医たちは患者に「うつ病は脳の病気で薬で治すもの」と宣言したのである。
第65回
「脳の病気」仮説にしがみつく狂信的な精神科医というものは、その実、精神療法の出来ない二流の精神科医に過ぎない。
その一方で、診療報酬上は「精神療法」の名義の保険点数を、厚かましくも請求しているのですから、こういうのを「診療報酬の不正請求」というのです。
彼らは、精神科医として何の尊厳にも値しない。
うつ病の生物学的仮説の全てを否定してしまうことは、それはそれで愚かなことです。
私は宗教としての「脳の病気」には興味がありませんが、うつ病の生物学的仮説については、依然として関心を持ち続けています。
ヒトの精神活動は、全て身体的な基盤を持っています。喜びも、悲しみも、怒りも、それらの情動が起きる時に、同時進行で生理学的事象が進行しています。
うつ病に関してだけは、そこに何らかの生物学的変化も起こっていないと考えるのも、それはそれで極端だと思います。
うつ病を、ストレス応答の機能不全という観点から見れば、成因論も治療論も、最終的に、脳か心か、身体か精神か、ものか言葉かといった二元論を超えた次元に収斂していくと思う。
学会などで「脳科学が進展すれば、うつ病の謎も解明され、治療も飛躍的に進歩する」と誇らしげに語る精神医学者がいる。
こういう「学会の勇者」を見るにつけ、「この人はうつ病問題の本質を理解していないな」とつくづく思う。
うつ病問題は、「診断」にではなく、あくまで「治療」において存在する。
うつ病やうつ状態と診断されたのに(本来の精神療法)治療がなされず、治っていない人がゴマンといることこそが問題なのだ。
そもそも、近年の突然の「双極性障害ブーム」は、これ程、奇妙奇天烈なものはありません。
1億に日本人が、あるとき一斉に躁とうつの気分変動を呈し始めたのでしょうか? ありえない。そんなことあるわけがないのです。
しかし、あたかも、忽然と双極性障害が集団発生したかのようなイメージが作られています。こんな異常な事態は人為が働かなければあり得ません。
旧来の「躁うつ病」は19Cに、ドイツのエミール・クレペリンがフランスのファルレ・バイヤルジュの業績を引き継いで提唱した概念で、その後、100年以上の風雪に耐え世界の精神医学界の共通認識として確立したものです。
「双極性障害」は、この躁うつ病の伝統を引き継いだものですが、やっかいなことに【双極性もどき】をも合併させてしまったのです。
旧来からの「躁うつ病」を「双極Ⅰ型」として、「躁うつ病もどき」を「双極Ⅱ型」としたのです。つまり、「双極性障害=双極Ⅰ型+双極Ⅱ型」という珍学説をつくりあげてしまいました。
「双極Ⅱ」は軽躁とうつからなりますが、さらに「気分循環性障害」(軽躁足し軽うつ)とあわせ「グレーゾーンの双極性障害」とくくってしまったのです。
丁度、「軽症うつ病」や「気分変調症」「適応障害」を「グレーゾーンのうつ病」と呼んだのと同じです。
【この「双極Ⅱ型」は文字通り作り上げられたものです】
医療が関わる前から病気としてあって、それを医学の力で明らかにしたというのであれば「医学の発見」と言えるでしょう。
しかし、精神医学者が関わることによって、病気のお墨付きを得る。つまり、【「双極Ⅱ型」は精神医学者が発明した病気に過ぎません】
それまでは、【病気として存在していませんでした。人為が働き、病気として発明されたのです】。背後には、新しい病気の発明を待ち望んでいた人々がいて、御用学者がそこに集まり、空騒ぎを始めたという事情があったのです。
第66回
「躁うつ病」は、何か訳があって躁うつになるのではなく、理由なく「躁」と「うつ」を繰り返します。
そのサイクルは、例えば躁状態が1週間以上続いて、うつ状態が5週間以上続くなど、【】およそ数週間です】。数日、数時間では決してありません。
ところが、最近は、その基準がすっかり甘くなり、国際的な診断基準「DSMーⅣ」が、【わずか4日、高ぶり、開けっぴろげ怒りっぽさなどの病的な症状が続けば、「軽躁状態」と言い始めした】。
【この軽躁状態に、2週間を超えるうつ状態が伴えば、これを「双極性障害Ⅱ型」と見なそうとということになったのです】。
すなわち、「4日間高ぶりが続いたら軽躁状態」との判断こそが、双極性障害の疾患概念を拡大させたのです。
(青森のねぷた祭りは1週間続く。この祭りの期間中、誰もが気分が高ぶるのが普通である。その祭りが終わった直後に「祭りの後」の気分は、何とも言えない達成感や疲労感と同時に、一抹の寂しさを伴う。こうした自然な気分のアップダウンまでもが、今や、双極性障害Ⅱ型と診断されてしまうリスクがあるのである)
昨今、急増したかのみえる双極性障害だが、その増えた分の殆どが、「双極性障害Ⅱ型」の分であると考えて差し支えない。
ともあれ、患者の立場からみて最も恐るべきは【誤診の宣言】です。
「あなたは『うつ病』ではありません。『双極性障害』です」。
そのように、精神科医が宣言したら、どうか最大級の警戒心を持って主治医の発現を聞いて下さい。
既に、主治医の治療方針などを聞く度に、若干の疑念を抱いておられたことでしょうが、その警戒レベルを「うつ病ではありません。双極性障害です」との発言が飛び出した瞬間に、どうかMAXまで引き上げて頂きたいと思います(続く)
「誤診宣言」は、間違いなく、薬剤の変更、もしくは増量の合図です。
この誤診宣言が、患者にとって気の毒なのは、「うつ病ではありません。双極性障害です」と言われる方々が、その時点で長く薬物療法を受けてきていて、腕に薬漬け医療の犠牲者となっている人たちだからです。そして、誤診を正すはずの「双極性障害」という病名も、患者を救う可能性は極めて低いと言える。
なぜなら、「うつ病」よりも「双極性障害」の病名の方が、アグレッシブな薬物療法を正当化する理由となり得るからです。
結果として、「うつ病」という診断を受けた人よりも、「双極性障害」という診断を受けた人の方が、薬漬け医療の餌食となる可能性が高くなります。
薬漬け医療にとっては、「うつ病」の病名より、「双極性障害」の病名の方がはるかにたちが悪い。
試みに、インターネットで「双極性障害」と入力して、検索してみて下さい。
「生涯、病気とつきあっていく」「一生、予防が必要」「再発予防のために長期にわたる薬物療法が必要」などの恐怖を煽るような記載に満ちあふれています。
しかも、その「生涯」「一生」「長期にわたる」などの記載において、「双極性障害Ⅰ型」と「双極性障害Ⅱ型」の区別は、全くなされていません。
「双極性障害Ⅰ型」は、かつて「躁うつ病」と呼ばれていたように、生物学的疾患、脳の病気、精神病であると考えていいでしょう。
ただ、この場合にも。本当に「生涯」「一生」の薬物療法が必要であるかと言えば、その科学的根拠は全くないのです。
それでも百歩譲って「双極性障害Ⅰ型には、長期にわたる薬物療法が必要である」としておきましょう。
問題は、「双極性障害Ⅱ型」で、症状的に「双極性障害Ⅰ型」より軽く、当然、薬物療法の必要性も「双極性障害Ⅰ型」より少なくなるはずです。
ところが、ここに悪質な欺瞞が行われます。
専門家たちは、「双極性障害」概念の拡大のために「双極性障害Ⅱ型」という【躁うつ病もどき】を発明しておきながら、いざ、薬物療法を論じる段になると、専ら「双極性障害Ⅰ型」つまり「躁うつ病」にとっての薬物療法を論じているのです。
私が、双極性障害をめぐる言説において専門家たちの倫理観を疑問視せざるを得ないのは、専らこの点です。
第67回
実際に「双極性障害Ⅱ型」は、「双極性障害Ⅰ型」ほど重篤ではありません。
だから、「双極性障害Ⅱ型」には、「双極性障害Ⅰ型」ほどの積極的な薬物療法は必要ありません。
それなのに、専門家たちは薬物療法について論じる文脈では、「全ての双極性障害は双極性障害Ⅰ型であるかのような書き方をしてきます」。
結果として、『全ての双極性障害は重篤であり、Ⅰ型、Ⅱ型を問わず、一生、薬物療法が必要」かのごとき結論へと巧みに読者を落とし込もうとしています。
これは、専門家以外の人は簡単には見破られない巧妙なトリックなのです。
結果として、最近増えた双極性障害Ⅱ型の患者たちは、たかだか「双極性障害Ⅱ型」である似すぎないのに、双極性障害Ⅰ型並の重量級の薬物療法を受けることになるのです。
「生涯」「一生」「長期にわたる」・・こういったおどろおどろしい威嚇と共に根拠なき薬漬け医療が行われることになるのです。
患者の側からすれば、不適正処方の薬剤が、抗うつ薬から気分安定薬や抗精神病薬に交代するだけです。さらに、薬を飲み続ける期間が「半年」から「生涯」に変更になるわけで、患者にとっては最悪と言える状態に追い込まれてしまいます。
そもそも、この患者は抗うつ薬を使わなくても治るような、軽度のうつ状態だった可能性だってあります。
それなのに、薬を出す以外に能がない精神科医なら、十把一絡げに薬物療法を始めざるを得ません。
この本のタイトル通り、「うつの8割に薬は無意味」なわけで、その8割のうち半分程度はプラセボ(偽薬)で治る人たちだからいいけれど、残りは「医者の言うとおり薬を飲んだが治らない」という失望を感じつつ過ごし、通院する度に、なにか症状を言えば、それに応じて薬が追加され、挙げ句の果てに入院や電気痙攣療法を勧められたりします。
うつ病だろうが双極性障害だろうが、いずれにしても同じこと。
【全ての道は薬漬けへと至る】
残念ながら、これが今日の精神医学の現状です。
そもそも、気分変動を「病的」とみなす視点自体が間違いです。
気分変動は、それ自体、正常な生理反応です。それは、生体の恒常性維持機構の一つであり、生理的な現象に過ぎません。
人間の身体は、外界からの刺激に晒されている開放的なシステムですが、その一方で、内部ではある範囲での定常状態を維持しようとします。
この恒常性維持機構をホメオスタシスといい、物理化学の定常状態とは異なる生体に特有の現象であり、複雑な調節機構によって維持されています。
貧血によって酸素供給が滞ると、心拍出量が代償性に増大して各臓器の酸素需給バランスを正常化しようとします。
この際に自覚する動悸、頻脈、頻呼吸、息切れなどの症状は、酸素需要の増大のための代償的機序に基づくわけです。貧血が治療されると、これらの症状も弱くなり消えていきます。
自律神経も、日中の交感神経優位から、夜間の副交感神経へと循環することで、活動と休息のリズムを作ります。
うつ病の患者は、治療前はたいてい睡眠障害を伴っていますが、薬物療法を始めると、睡眠が改善され、これに代償性の仮眠状態を呈します。
【双極性障害をめぐる今日の議論に根本的にかけているのは、気分変動を生体の代償機構と見なす視点です】
そのため、抑うつにせよ、軽躁にせよ、それが生理的な反応であり、その代償範囲に過ぎないかも知れないのに、全て、これを病的と見なすところがあり、実に愚かなことです。
「うつ病は誤診であり、実は双極性障害であった」と判断する前に、先ず、その双極性障害の根拠となっている軽躁状態が、生体の正常な代償機構の範囲にとどまっていたのではないかと疑うべきでしょう。
さらに言えば、そもそも、当初、うつ病と診断したその抑うつ自体も、正常な心理的反応の範囲に過ぎなかったのではないかとも疑うべきなのです。
左に触れた振り子が、逆に振れると中央で静止せずに、勢いがついて少し右に触れる。これは当然のことです。
さらに言えば、ある刺激によって振り子が左右に振れたこと自体も、一定の範囲であれば、それは異常とは呼べないでしょう。
第68回
それにしても、私だって大した治療を行っている訳ではありませんが、紹介元の医師からの診療情報提供書を読み、患者の言葉に耳を傾けていると、率直に申し上げて「もうちょっと上手に治療できなかったものか」と思うこともあります。というよりも、殆どそうだと言っていいでしょう。
【「双極性障害は気分の障害」という先入観を先ず捨てて下さい。「気分」なんかに注目するから失敗するのです】
「上がった気分を下げる」とか「下がった気分を上げる」とかいった発想は決してしてはなりません。ムードに流される治療は今日でおしまいです。
【「双極性障害」を「睡眠・覚醒リズムの失調」と捉え治して下さい】
気分の上下動は重視しないこと。逆に、睡眠・覚醒リズムについては神経質なほどに丁寧に見て下さい。
「睡眠・覚醒リズム」さえ安定してくれれば、気分など後から勝手に治ってくれます。
多弁多動であろうが、易怒性、易刺激性であろうが、不安、焦燥であろうが、意欲の低下であろうが、それらは何ら治す必要はありません。
症状の一つ一つを治そうとする必要はなく、ただ、睡眠、覚醒リズムを整える。
活動による疲労と睡眠による疲労回復のきれいなサインカーブを描くことだけを考えて下さい。
「睡眠日誌」はインターネットで検索すれば、各種のサンプルが直ちにヒットします。その中で、どれでもいいから使いやすそうなものをプリントアウトして、毎日の起床、就寝時刻を記入してみて下さい。
こういう睡眠の実態を把握するには「入眠困難」「中途覚醒」「早期覚醒」などの古びた専門用語は、かえって睡眠の真の実態を理解することを妨げます。
双極性障害(Ⅱ型)を、睡眠・覚醒リズムの障害と特有のしてみると、いくつかの特徴があります。
先ず、睡眠時間の長短があります。短時間睡眠でしゃかりきになって頑張る数時間の後、疲れ切ってこんこんと眠るか、あるいは、力尽きて何一つする気になれないような日が数日、場合によっては数週間続きます。
そして沈滞した状況から脱すると、又、途端にがむしゃらに動き始めて、不眠不休の奮闘努力を続ける。
しかし、そんなことをしても長くは持ちませんから、又、今度は何日も寝込むような時間が訪れる。
こういう不調の波の極単に激しい人には、特有の性格がある「執着性格」というもので、下田光造氏が提唱した。下田氏は、これを「双極性障害Ⅰ型」(躁うつ病)の人の病前性格として考えていいましたが、私見では、「双極性障害Ⅱ型」の病前性格として捉えた方がいいと思われます。
躁うつ病は、ある性格の人がなるというよりも、そもそも一定の遺伝的な基礎の上に立った精神病ですので、特定の性格と関連があるかと言えば、私はその点は懐疑的です。
執着性格の人には、一度起こった感情が長く持続するという特徴があります。何かを始めて一度、熱中するとその熱がなかなか冷めない。
だから、仕事熱心、凝り性、徹底性といったところがあり、職場ではなかなか重宝がられる人材です。
ただ、残念ながら、疲れ知らずでガンガン働いて、気がつかないうちに自分の体力の限界を超え過労状態になっていても、それでも働き続けます。
ですから、身体の疲労に、精神はすぐには気づいてくれない状態を続け、突然にガクッときて寝込んでしまうことになるのです。
こういう性格の人の場合、躁状態でもうつ状態でもない通常の状態の時でも、睡眠時間の長短が大きくなっています。4~5時間しか眠らない数日の後、9時間近く眠る日が続くなど、短時間睡眠と長時間睡眠を繰り返す傾向にあります。
この短時間睡眠と当時感睡眠との繰り返しは、気分変調をもたらすリスクが非常に大きくなりますので、意識して治さなければなりません。
第69回
気分変調を引き起こさないためには、第一に「短時間睡眠を続けないこと」です。
仕事で夢中になって夜遅くまでそのまま仕事を続けたいと思っても、そこは我慢して、いつもと同じ時刻に就床することが大事です。
とにかく、睡眠時間の長短の振れ幅が大きくなれば、何れ、双極性障害Ⅱ型的な気分変調を呈するリスクがあると覚悟した方がいい。
睡眠時間の長短と並んで、「睡眠相」の変動が大きいのも、双極性障害Ⅱ型の特徴です。
「睡眠相」というのは、何時に眠り、何時に目覚めるのかのパターンのことで、とりわけ、起床時刻のズレが問題になります。起床時刻がずれると、身体は時差ぼけ状態になります。
睡眠時間の長短がある人は、たいてい「睡眠相」の同様もあります。
典型的なパターンは、平日4~5時間しか眠らないような生活を送って、土曜日は昼まで寝ている。そしてその夜は、夜更かしをして未明の3~4時にようやく就床し、、日曜も昼まで寝ている。そして、月曜日は普段通り、朝、起きなければならない。こういう生活です。
仕事熱心な人によくあるのが、平日に短時間睡眠を続け、終末に長時間睡眠で補おうとすることです。
休日の睡眠時間と平日の睡眠時間との差異を「睡眠負債」と言いますが、それは、平日に睡眠時間が足りていないからなのです。
睡眠負債を週末の長時間睡眠で補うことは、ある程度必要です。
しかし、その場合、出来れば「遅め起床」ではなく、「早め起床」で補ってみて下さい。そうすれば、「睡眠相」は大きく後退しません。それでも寝不足なら、午後に長めの昼寝をしてもいい。
いずれにせよ、起床時刻だけは余り大きくずらさない方がいいいのです。
睡眠の専門家たちに聴いてみると、「2時間未満にせよ」という答えが変えてきます。2時間の差といえば、タイと日本との時差。バンコクからの帰国ならば耐えられるというわけです。
睡眠時間の長短が多少あっても、睡眠相が安定している。つまり、起床時刻が大きく大きくずれなければ、気分の変動はかなりの程度抑えられます。
普段は、夜遅く寝るが、身体の疲労を感じた日は、思い切って早く寝るような人、つまり、就床時刻を早くすることで睡眠不足を補おうとイシし来ている人の場合、多少の睡眠時間の長短はあっても、起床時刻がずれませんので、睡眠相は大きく変動しません。
そういう人は、身体が時差ぼけ状態を作りませんから、気分の極端な変動には至らないのです。
人によっては、睡眠相が完全なフリーランス状態になっている人もいます。無職の人や自宅療養中の人などです。
毎日、起床時間がまちまちな人は、日本時間、パリ時間、リオデジャネイロ時間を転々としている感じで、日本に居ながらにして世界を股にかける生活ですから、当然、慢性時差ぼけ状態です。これでは、身体も、今が昼だか夜だかわかりません。こういう生活では、気分変調が起きても当然です。
先ずは、「睡眠・覚醒リズム」を安定させなければ治療になりません。
睡眠時間の長短も、睡眠相の変動もその原因の一部は「働き過ぎ」にあります。
「働き過ぎ」がいけないからといっても、「仕事が諸悪の根源」だとは私は思いません。
むしろ、仕事というものは、上手に使えば、睡眠相のペーズメーカーになります。
基本的に勤めを持っている人は、出社時間が日々一定です。だから、そこから逆算して家を出る時刻、起床時刻が決まっています。起床時刻が決まれば、その7時間前に就床するリズムで生活すればいいのです。
第70回
私は良く患者さんに「仕事は健康法」と言っています。
「仕事がある」「学校がある」と思うと「早く寝ておこう」と思います。朝が来れば起きなければなりません。
「明日、することがある」「今日も行かなくては」そう思うことで、自然と生活のリズムが就いてきます。それを毎日繰り返していると、身体は日課を覚えて勝手に対応してくれます。
朝が来れば、自然と目が覚め、仕事の時間には自然と頭が冴え、食事の時間には胃腸が食餌を待ち構え、夜になると自然と眠くなります。
もちろん、仕事にはストレスが伴うことは事実です。しかし、【適度のストレスは健康にとって必要なことです】
日中のある時間帯にストレスを受けて、心身がいったん「戦闘モード」となれば、その日の夜は、帰宅と共に疲れが一気に出ますので、その勢いで質の高い睡眠を得られます。
日中、適度に「戦闘モード」に入っておいた方が、その夜の「休息モード」の質が良くなります。これこそ【メリハリのある生活】というものです。
逆に「毎日、遊んで暮らす」ような弛緩した日々を送れば、ストレスというものが全くありませんから、心身にスイッチが入らない生活が漫然と続くことになります。これでは衰えていくばかりです。
「双極性障害Ⅱ型」(以下、「躁極Ⅱ型」と表記)には、薬が必要でしょうか?
実は、薬なんて、使っても、使わなくたってどっちだっていいのです。どっちだっていいけど、患者として、間違っても「薬さえ飲めば治る」などと思ってはいけません。
医師の側だって、「薬さえ飲ませれば治る」などと夢にも思ってはいけません。
【躁極Ⅱ型の治療において、薬は頼りになりません】
「うつ病ではありません。Ⅱ型の躁極性障害です」と言われた患者は、お医者さんに「薬を飲めば治ります」。そう言われたはずです。そして、その通り薬を飲み続けた。その結果、実際に良くなっていますか?
先生の言った通りに薬を飲んで、先生の言った通りに良くなっていますか?
【よくなってなんか、いないじゃないですか?】
【そろそろ、「自分はだまされているのではないか?」】という疑問を少しでもいいから持って頂きたいと思います】もちろん、主治医委の無力ぶりをここで非難してもいいでしょう。
でも、それだけでは足りません。ご自身におかれましても、【「薬を飲めば治る」という浅はかな期待を、いい加減捨てて頂かなければなりません】
何か特効薬のようなものがあって、正しい診断を受けて、その特効薬を飲めば、みるみる良くなっていく、そんな甘い話にだまされてはいけません。
うつ病と診断された時に治らなかった。その時、何らかの【自助努力をしようとなさったでしょうか?】「薬さえ飲めば治る」そんな甘い考えを抱いてはいなかったでしょうか?
そして、今回、「双極性障害」と診断された。さて、何らかの自助努力をしようとなさっているでしょうか?
患者さんに申し上げます。自助努力は必要です。それなくしては、どんな薬を飲んでも治りません。
第71回
もし、あなたの主治医が具体的にどうせよということを言わないとしたら、【1日7時間の超の睡眠、睡眠相の安定、そして断酒、この3点を守って下さい】
主治医委に怒りをぶつける前に、先ずは、ご自分で出来る範囲の努力はしてみましょう。
その努力をせずに主治医委の先生を責めるようなことをすれば、どういう結果が返ってくるか?
その先生は、努力をしないあなたに代わって、自分に出来る努力をすると思います。それはどんな努力でしょうか?
それは、薬の増量であり、変更であり、他剤の追加であり、挙げ句の果ては入院の勧め、電気痙攣療法の勧めでしょう。
腕の良くない精神科医ほど、「治らないのは薬が足りないせいだ」と考えがちなのです。
薬物治療というものは、体の中に存在しない物質を外から入れることであり、それだけで十分負担になります。
さらに薬の種類や増えたり・・・これでは、終始、体の中に何人ものお客が出たり入ったりしている感じで、落ち着かなくて仕事になりません。体の方としても、体外からの物質に上手に対応できなくて当然なのです。
特に医師側に「抗うつ薬を使ったから気分が上がったのだ。しまった。何とかして気分を下げなければならない」という焦りがあることが多いですから、直ちに抗精神病薬や気分安定薬と呼ばれる強い薬を出して抑えにかかります。
急な薬の増量に体が驚いて、焦燥感が出てくると、医師としてはますます焦って薬の量や種類を増やします。
強引なことをやると、今度は副作用が出ますから、それで医者は驚いて今度は減らすにかかかるのです。
【下手な薬物療法は、かえって気分を乱高下させる結果に終わるでしょう】
そして、(薬物療法でもなんでもない)この薬剤調と称するものは、いつまで続くのでしょうか?
その答えは。ネットで「双極性障害」の語で検索すると、すぐわかります。
「生涯、病気とつきあっていく」「一生、予防が必要」「再発予防のために長期にわたる薬物療法が必要」と書かれています。
この薬剤調整は、主治医を変えない限り(通院をやめ断薬しない限り)永遠に続くと考えていいでしょう。
双極性障害(Ⅱ型)の人には、生活習慣の問題があります。睡眠時間の長短、睡眠相の動揺があります。
生活習慣を改善する努力を怠っていては、そんな薬を飲んでも効かないし、医者を非難しても問題の解決にはなりません。
睡眠に加えて深刻な問題はアルコールです。双極性障害(Ⅱ型)の人にとって、アルコールこそ情緒を不安定にさせている要因です。
2015年に英医学誌に発表されたカサンドラ・オケチュクの論文に拠れば、長時間労働をする人においては、アルコールの過量摂取をする習慣がつく可能性が高いとのこと。
そもそも、執着性格ゆえに長時間労働に陥りがちな双極性障害(Ⅱ型)ですから、酒を飲み過ぎる人が出てくることは想像に難くありません。
アルコールを濫用する傾向がある理由は、夜、眠ろうとしても高ぶってしまってなかなか寝つけないからです。
普段からガンガン仕事をして、帰宅後も眠りにつくぎりぎりまで書類を読んだり、メールチェックをしたりしています。
こういう状態ですから、1日のうち目覚めている時間の中でも後半、特に眠りに入る寸前の1時間が最もテンションが高いような生活です。
これでは、閉店間際に安売りを始めて、お客が殺到して、結局の所遅くまで閉店できないスーパーのようなもの。
ついさっきまで慌ただしくしていて、ベッドの中にまでその高ぶりを持ち込んでしまいなかなか眠れない。それで寝る前に少しアルコールを飲んで高ぶりを覚まそうとする訳です。
しかし、アルコールには睡眠の質を損なってしまいます。毎日飲酒する人は、慢性的に睡眠不足のような状態になっています。
そもそも、双極性障害(Ⅱ型)をはじめ、【精神科の全ての薬物は断酒が原則です】
【クルマ乗るなら酒飲むな。クスリ飲むなら酒飲むな】
【薬物療法中は、アルコールは一滴も口にしてはいけません】
第72回
私どもの科では、他の精神医療機関、とりわけ大学病院から転医希望で移ってくる患者が多いのですが、まことにショッキングなことに、その多くが前医から断酒を勧められていないのです。
適切な治療を提供すべき立場にある大学病院の精神科医ですら断酒の指導をしていないのです。
私は、これは精神医療界におけるスキャンダルだと思います。精神科医は一般に断酒指導をする習慣が殆どありません。大学病院でも、そのことを指導していないようです。
ある研究会で、私が薬物療法中の飲酒を話題に出したところ、蜂の巣をつついたように第紛糾状態となり収拾がつかなくなりました。
「結局、『酒をやめろ」と言えばやめるような簡単な患者しかお前は診ていないんだろう。俺たちはもっと難しい患者を見ているんだ」。
「薬剤の添付文書を見てみろ。『アルコール禁忌』とは書いていないぞ。『出来るだけ飲酒を控えさせる』と書いているじゃないか」・・・。
今日の精神科薬漬けの問題には、製薬会社の情報戦略に精神科医たちが翻弄された結果という側面もあります。
製薬会社としては、自社のクスリがまさかアルコールと一緒に服用されているなどとは、想像もしていません。
精神科医が製薬会社の商業主義を激しく非難しているその側で、精神科医から断酒の指導を全く受けていなかった患者かが、抗うつ薬を躊躇なくウィスキーの水割りで流し込む。
こんなことが起きているようでは、精神科医が製薬会社を批判しても全く説得力がありません。
しかし、双極性障害Ⅰ型や統合失調症については、「クスリなし」で結果を出すことはとても難しい。
双極性障害Ⅰ型については、薬物は必要だと考えています。双極性障害Ⅱ型ならば、生活習慣の是正だけで結果は出せますが、双極性障害Ⅰ型は、それだけでは難しい。少なくとも、私には無理です。薬物を補助的に使わざるを得ません。
使わざるを得ない理由は、数週間を単位とした気分の変動が、本人の自助努力では抑えられない程に強く出てくるからです。
「精神医学の8割は無意味」と考える私ですが、それでも2割程度は意味があると思います。
特に、薬物治療は「最小限の必要悪であり、最小限にすべきだが0には出来ないもの」と思います。
双極性障害Ⅰ型であろうがⅡ型であろうが、治療の主は、療養指導、精神療法であって薬物療法は従です。あくまでも、精神療法的関与の下での療養指導が主で、それにより「睡眠・覚醒リズムの安定を目指す」ことが最も重要です。
療養指導の基本は、「睡眠量の確保、睡眠相の安定、断酒」の3つです。この点についても、Ⅰ型とⅡ型に違いはありません。
大切なことをもう一度申します。「クスリなんてどれも大した違いはありません」。
よく言えば「甲乙つけがたい」。悪く言えば「ドングリの背比べ」でしかないのです。
いずれにせよ、どのクスリをとってみても、薬物療法だけで押さえ込めるようなパワーはありません。
第73回
私は、「必要な患者に、必要な薬を、必要な期限に限って処方する」ことについては何ら否定していません。
【うつ病や双極性障害Ⅱ型には、薬剤はそれ程必要ではないということはわかってきました】
双極性障害Ⅰ型の療養指導の具体的な方法は、Ⅱ型と変わりありませんが、Ⅱ型の場合とは比較にならない、きめ細かいモニタリングと時機を逸しない素早い介入が必要です。
Ⅱ型の人に比べれば、Ⅰ型の人は自分の生活を自分で律する力が弱い。勢い、治療者側が「ああしろ、こうしろ」といった具体的な指示をその都度、与えない限り、すぐ荒れた生活に陥ってしまいます。
生活のリズムが崩れれば、いとも簡単に躁状態、うつ状態に陥ってしまいます。その上、躁状態の極期、うつ状態の極期においては、「心ここにあらず状態」で、治療者の言葉が耳に入りません。
こういうときは、【大切なことを1つか2つに限定して、それだけは頭に入るように語りかけていかなければなりません】
初診の患者、状態が不安定な患者、薬剤調整中の患者などは、医師としては全て一回は毎週、診なければいけないでしょう。
睡眠日誌を用いいた「睡眠・覚醒リズムのモニタリングは、絶対に必要であり、毎回の外来ではこれをチェックすることが診療の中心となります」
医師の側からうるさく言わない限り、生活習慣はルーズになってしまいます。
毎日のように「23時就寝、7時起床」「休日の朝寝坊もプラス2時間まで」「アルコールは絶対に飲んではいけない」など、同じフレーズを耳にたこができるぐらい繰り返さなければなりません。
睡眠・覚醒リズムが安定してこないうちは、常に躁状態、うつ状態が悪化するリスクがあると考えるべきでしょう。
家族に協力を求めることは絶対に必要で、それなくして双極性障害Ⅰ型の治療は不可能です。
療養指導の実際についても、患者本人よりも家族に対してこそ丁寧に行うべきでしょう。
薬物療法の効果については、睡眠の量と質の両面をチェックすることで判断します。睡眠時間が短くなることは危険な兆候です。
しかし、薬剤が多すぎて日中の活動が妨げられると、今度は良質な睡眠に必要な適度な肉体労働が得られません。
それに、いずれ、復職、復学を考えている場合は、薬剤が多すぎると精神的なk集うに支障を来しますから、ある程度は頭がクリアになっておかなければいけません。
薬は少なすぎても、多すぎても良くない。
従って、薬剤は日中の活動を妨げず、眠気が来ない限度いっぱいが目安となります。
復職、復学が近づいてきたら「カムバック後、直ちに全力疾走」というような事態を避けるためにも、会社側、学校側に条件をつけた診断書を書くべきでしょう。
双極性障害Ⅰ型に療養指導が必要なことにかけては、双極性障害Ⅱ型以上です。実際、指導してもなかなか言うことを聞いてくれませんから、療養指導の困難さは双極性障害Ⅱ型より上であると覚悟しなければなりません。
【「薬さえ飲ませれば治る」、などとは夢にも思ってはいけません】
「治療ガイドライン」を読んで、「ここに書いてある薬だから、エビデンスがあるから効くはずだ」などと安易に考えている医者は、全くもってホープレスです。
こういう医師は「ガイドライン」通りにやってうまくいかないと、焦って、次から次と強引な薬剤調整を行いがちですが、そうすれば状態はますます悪化してしまいます。
第74回
「精神療法」のことは、「ガイドライン」等では「心理社会療法」として一括されています。「生物学的」療法としての薬物療法に対して「心理社会的療法」といういみなのでしょう。
「双極性障害ガイドライン」を見ると、心理社会療法として、心理教育、家族療法、認知行動療法や対人関係、社会リズム療法などの心理療法技法が挙げられています。
この「ガイドライン」を読んで気がつくことは、ガイドラインの執筆者の方々が、精神療法に関して何事かをガイドしてくれるわけではなく、むしろ、何一つガイドしてくれず、ナントカ精神療法とかナントカ精神療法の「品定め」をすることが、ガイドラインの役割だと悪寒上げのようです。
結局のところ、精神科医の仕事というものは、双極性障害の治療であれ、うつ病の治療であれ、純然たるサイエンスではなく、むしろアートです。
「アートは長く、人生は短し」と言ったのは、他ではないヒッポクラテスです。
彼は医師でしたから、医師の仕事の中にある「アート」の側面を正確に理解していたと言えます。
精神療法に懐疑的な精神科医は、例外なく精神療法に不熱心です。
しかし、精神療法だけが怠け者に媚びなけねばならない理由はありません。
夏目漱石は、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」(「こころ」より)と言いましたが、精神療法に向上心のない精神科医は、漱石の言葉を甘受すべきでしょう。
第75回
精神療法的に思考するとは、個々の患者に対して治療の優先順位を考えることです。
現在、この患者において何が一番の問題になっているのか、今日の診療では、どのようなことが面接の話題になりそうか、あるいは、どのような話題に深入りすべきではないのか、
さらには、患者があえて今、深入りすべきことに触れたときに、それに対して、どのように言葉を返してゆくか、そういった「今、ここで」必要なことを考えることが、精神療法的に思考するというなのです。
ナントカ精神療法一般とか、ナントカ技法一般を論じても意味がありません。「この患者の 、今、ここ」をこそ徹底的に考えなければいけません。
一人の患者が、同時に数多くのテーマを抱えています。短時間睡眠やアルコール濫用などの生活習慣の問題に加え、過重労働、超過勤務、派遣切りなどの労務関係、失業、多重債務、相続問題などの経済問題、上司部下関係、嫁姑の葛藤等々。
精神科医として最悪なのは、これらの問題に目をつぶって、薬を出して強引に治そうとすること、これが一番いけない。しかし、次にいけないのは。これらの問題の全てを等価に扱って優先順位をつけないことです。
【精神療法的に思考するとは、優先順位をつけることです】
そして、患者と話し合って【出来ることから始めましょう】と提案することです。
問題は錯綜し、患者は混乱しています。
【でも、順を追って解きほぐせるところから、解きほぐしていけばいいのです】
抱える事情は様々です。これらは、混乱した頭ではいい解決策が浮かびません。
【しかし、脳を休めた後であれば、『あの人に頼もう』とか『弁護士に相談しよう』など
といった言い知恵が浮かんできます】
大切なことを繰り返します。
【精神療法とは個々の患者に応じて優先順位を考えていくことです】
患者の個別性を等閑視して、どの精神療法技法が有効であるかとか、どのジャーナルにエビデンスレベルの高い論文が出ているかなどの無駄話にうつつを抜かすことではないのです。
患者に対して「働きかけを継続的に行う」ための必要なことは、診察の度に目的を明確にすること、そして、診察の度に次回診察までの課題を患者に提示することです。
前回の診療を踏まえて、今回の診療を初めていき、次回の診療につながるように今回の診察を終え、カルテに次回の診察の最初に確認すべきことを記す。こういうことを繰り返していけば、診察が連続ドラマになります。
逆に、下手な治療者というものは、毎回の診察で何を話題にしていいかわかっていません。
【だから、診察を「最近、調子はどうですか?」というような間の抜けた大雑把な質問で始めることになります】
前回の診察で、患者さんに課題を提示することが出来ていれば、当然、今回の診察では、その達成状況を聴くところから始めなければなりません。
しかし、そもそも前回に具体的に何をせよと言っていない。だから、前回の診察を踏まえて今回の診察を始めるということが出来ない。
結果として、診察が1回毎の単発に終わり、連続ドラマになっていないのです。これでは、「働きかけを継続的に行う」ことは出来ません。
担当医と患者とで、目標を共有し、診察の度に確認し、次の診察につなげてゆく。こうして、一つの物語を患者と医師とで共同して展開させていこうとするのです。